源 実朝。

2004年5月4日 読書
関係ないけど、
好きな句を一句。

 山は裂け 海はあせなむ 世なりとも
  
 君にふた心 わがあらめやも
今の仕事は、
成功、失敗、半分半分。
どっちかいうと、かなり圧倒的に、失敗の率が高い。
(あともうちょっとなんだけどね。)
要は、物事は、理屈でないのです。

失敗して、のたうちまわり、
苦しもがいているのが現状。

現に知人で、
すばらしい仲間の一人であるけれども、
ぼくの仕事も理解されず、
(僕はアチラさんの仕事は理解してるつもりだが。)
どうしてなんだか誤解がもとで
離れ離れの有様である。

物事は実に、なかなか、
むつかしいのであります。
(だから、おもしろいのかもしれませんけど。)

まあ、けれど、とりあえず、
今を、全力投球。
あとはなるように、なるですよ。
と、適当に信じて、やっておりますデスね、ハイ。
(これ日本語か?)
(辛気くさい話の続きですが・・。)

例えば、フランスの印象派の絵画の中に、
日本の浮世絵の写法が取り入られていたりする。
または、印象派音楽の旋律のうちに、
ガムランのごとき、東洋の伝統が浮かびあがったりする。
まったく一見関係ないととれる世界に、
時空を超えた、交差するような世界の交感をみることができる。
西洋の人は、東洋をみて、西洋らしさを深め、
逆に東洋人は、西洋人に、
自分たちをとりまく何者かを感じることができる。
こうして、例えば様々な見聞を広めれば、
単に新しいものを知るというだけでなく、
逆におのずとほんとうの自分らしさ、伝統に、
向き合うことができるという淡い期待を感じているからであります。
特に自分の場合は、
とても理論なんて考えられるシロモノでなく、
実際のフィールディングを通じて学ぶ方が、わかりやすいのですが。

それは、身の回りのことから始まって、
想像力が働いて本の内容が読み取れるようになり、
やがては文章の創作に通じ、
それが身体の表現につながり、
さらには音楽、映像、美術の表現へ拡大し、
また現実の生活の応用、理解、工夫へと結びついていくような、
ものの積極的理解の流れの必然のようであります。

もうひとつは、他国の文化からわが身をみつめ、
さらに自国の文化と伝統を掘り起こしてみれば、
僕たちは遠く忘れていた、
様々な記憶を蘇らせることができます。
それは決して軽薄なものなんかじゃなく、
ぼくらルーツそのもの、といってよい。
時代時代の言葉によってつむがれた、
さまざまな表現の一貫は、
例えば源氏物語、平家物語、万葉その他、
過去に理解しづらいが珠玉に満ちた、
僕らの根底に根ざした豊かなものの捉え方、感じ方に通じ、
時代を問わず、生きた人物を浮かばせて、
その時代に生きた必然と共感を得ることができましょう。
それは広い意味で、自分たちの財産であるし、
僕らの生きた証、
時代の人々への共感、
ひいては僕たちの新たな人物像の創造へと、
結びつけることができるのではと考えています。

それは、自分のおかれている、
あたり前とされるような文化と伝統に対して
ただ単に、深い愛着と信頼とを寄せているからこそであります。

無題。

2004年4月24日 エッセイ
知らない、新しい世界、を知るうえで。

端的にいえば、
アプローチの違いはそれぞれで、
物理、数学等の記号・数理・文字を駆使した
理論構築を目指す分析的方法もありますけど、
(時間軸tを加え経過をあらわす、など。)

分析手法はあくまで客観分析の数理世界。
ありのままを確実に数で置き換えた
疑似グラフィックの世界であります。
それでも、不確定性原理よろしく、
実験による観察そのものが、
事実を主体的に変更してしまう場合もありますけど。

もうひとつは、
認識を客観、分析のみに置かず、
ありのままの観察による主観、洞察を鍛錬して
事実の根底にある、力や時間を感じ表現する方法です。
簡単にいえば、
自転車を、カメラや写真で観察するなんて馬鹿馬鹿しい。
実際乗って、試してみよう、ということです。
ありとあらゆる芸術、スポーツはこちらの方だと思われますが。

厳密にいうと、
方法の違いは、それにふさわしい対象の違い、なのですが。
が、どちらも好き勝手に選べる、というわけでもない。
どちらも、あくまで正しく捕えられる方法、
経験に基づく正しい方法、として、
やはり技術習得に向けて、
繰り返し鍛錬練習しなければならないもののようです。

ただし、特に芸術方面などでむつかしいのは、
時代による、認識方法の違いもありますが、
特に技術に現れる伝統の中で、
鍛錬に基づいた、個性の開花が存在します。
しかし、そのベクトルの捻じ曲がりようが、
はたしてはた目に、ほんとうの創造と認知されえるべきものか、
客観的にみて、非常にわかりづらい点が問題であります。
スポーツ、芸術においても、
文化伝統を守り、知るうえで
どれほどの理解、鍛錬が正しく評価されているのか。
曖昧誤解の要素が多いぶん、むつかしいもんだ。
(また評価基準が客観伝統に頼らざるをえないものだけに)

ただし個性、伝統というものの、
考え方の変化というものを知る上で、
そのような体験は、非常におもしろいことだと思われます。
しかしそれも、本来は、
自分が体験し継続できて、はじめておもしろい、と
思われてなんぼのもんだとは思いますけどね、ハイ。

今も昔も。

2004年4月20日 エッセイ
くだらない、よもやま話。(の続き?)

まあ、はなしの筋もよくわからない、ですし。
大体、ざっとまあ、

僕からでる話など、
いつも、クダランことの延長ですが。

でるんですな、こういう話のツケは。・・

ぶっちゃけ、
はっきり、明暗。
決して、全敗ではないんだけど。

たとえてみれば、
(事実ではないですよ。あくまで比喩!)

大橋マキのようなのには振られ、
むらじ佳織タイプには受けるんかな、・・みたいな。

なんでだろ。
べつにそんなつもりさらさらないのに。
こっちの世界見飽きたのに。
もすこし違う世界みたかったのになあ。

嬉し半分、寂しさ半分?
うーーーーん。

ひょっとして、K県人って、
ある筋からみれば、イモッてこと?
それとも、単にフイーリングの違い?
よく、わかりません。

何年の知り合いも、
ただの友達であれば、
ただのお友達、
やっぱり、それ以上になれなかったってこと?

結局、
なるように、
うまくできてたんかいな。
だすれば、少し残念。・・・。
ま、けど、仕方ないね。きっと。
DVD ビクターエンタテインメント 2001/11/21 ¥5,040アランフェス協奏曲 (ロドリーゴ)
ドビュッシー讃歌 (ファリャ)
古風なティエント (ロドリーゴ)
祈りと踊り (ロドリーゴ)
暁の鐘 (E.サインス・デ・ラ・マーサ)
小麦畑で (ロドリーゴ)
ファンダンギーリョ (トゥリーナ)
粉屋の踊り (ファリャ)
DVDの性能をフルに発揮させることを前提に、 日本のギター界の若き至宝、村治佳織が、スペインの大作曲家ロドリーゴの生誕100年を記念してアランフェス協奏曲他ソロ3曲をアランフェス宮殿で、またファリャ、トゥリーナらの作品をマドリッド近郊の町ペドラッサ、古城(マンサナレス城)などで映像収録した超話題盤。 3か月にもわたるス…

(ここからは、ほとんどトップシークレットに近い、
話なのである。)

以前、某日にお会いした、
某TV局で働く某女子に面会した後の話。
僕は別になんら関係のない昔の知人であるのだが。
たまたまお互いの仕事柄、深夜遅くになることも、あった。

とりあえず仕事が終わって ぼうとしてると、
たまたま連絡が入って、そのまま私服着で
ごはんを食べようということになって、
深夜の2時、ノコノコでかけていった。
たまたま、あちらの方の仕事も終わったということなので。
仕事の方とご一緒はこれはマズイと思ったが、
おもしろいから、ぜひ、ということなので
頑張って 疲れて眠いのを我慢して行ってみた。

すると半蔵門から246号線、六本木近くの焼肉屋さんらしい。
しかも思いっきりの高級店。
ものすごく不安で、財布の中を確認し、
おそるおそる中に入ってみた。
なんか、知らない怪しげな数人、明らかに業界人とおぼしき人が談笑している。
思いっきり場違いだが、そっと会釈し、静かに横につける。
すると、どうやら仕事終わりの席らしい。
奥にも、女性数人、こっそり陣取っている。
すると・・
はて?どこか、どこかでみたような・・
しかし、ふつうの人でなく、
明らかに有名人の玄人さんっぽい。
しかし、顔から、なぜか名前が憶え出せない・・!
えー、誰だっけ?僕も年だな・・
何気なく、うつむき加減で、モシャモシャ肉を食べ、
遠くからみているのも、ぜんぜん気がつかず、
なかなか話で一杯で、名前も訳ありで教えてくれそうもない。

サンチェらしき菜っ葉をほうばってるとき、
はたと気づき、ブッと吐き出した。
・・あれ、つり革広告にのってた、アナウンサーじゃなかったあ?たしか・オオハシ・某とかいったよな・・。
だが、なんで、ここに?!

が、しかして、
もっとも妖しく気を引くのは、
その脇隣の、ちょっとパープリンな
麗しきオバサンぽいお姉さん。
これが、一見ふつうのようで、もっとも怪しげな存在なのだ。
断じて只者でない。
なんだか、絶対、見覚えある。
そうだこれは、絶対、思い出さないといけない!
ない頭と、記憶を、顔面真っ赤に、じっくり辿っていくと・・。
家の、あこがれのクラシックギタージャケットの、
レーベルの表面がいきなり思いついた!

何を隠そう、これは、まさか、もしかして・・!
エ、でもなんで、
いまここ、東京にいんの?

「アノ・むらじ・かおりが・ヤキニクを・食シテイル?@☆!」

あこがれのギタリスト村治佳織が、
ぼくの目の前でヤキニクをモグモグ食べている。
その瞬間、ぼくのあたまのなかの
何かがはじけて、すっとんで消えていきました。・・・

・・その後大量飲酒にて
前後不覚で記憶喪失に至ったのはいうまでもありません。
しかも、こっちは、ルンペン同様、私服ダゾ!!
どうしてくれんのよ、ねえ、アンタ。(怒)

(詳細報告は以上です。あしからず。)

 運を使い果たしてしまった追伸”
本年の出会い系有名人豪華キャスト:
小野真弓、大橋マキ、村治佳織。
ALANIS MORISSETTE CD 2004/05/18 ¥2,069Eight Easy Steps
Out Is Through
Excuses
Doth I Protest Too Much
Knees Of My Bees
Not All Me
So-Called Chaos
This Grudge
Spineless
Everything

ジャケット乗せられないのが残念。
”Everything”懐かしさで一杯のレーベルです。
そのむかし、ゴールド・コーストのサーファー連中と、
ギター弾いて歌ったのがAlanisだった。

でね、Mちゃん。
あなたと初めてドライブして、
フェリスの脇と、
ハマの山手の海沿いを、
カモメ流して走ったの、
Alanisだったんだよ、覚えてる?

ビーバス・バットヘッドと、
伊集院光のオールナイト・ニッポンで
なぜか盛り上がっていたんよね。
それで、Alanisの鼻歌と
あなたの鼻声似てるってたら、
なんかすっとぼけちゃって。

一方通行の禁止帯を案内して、
逆走して走ってて、
そのままトボケて通過しちゃったんだよね。

まあM子のことだから、
あきらめてたけど。

横浜山手の、
米軍の脇の小道に、
思いっきり晴れた日、
もう一度、走れたら、いいね。

あの日とおんなじみたいに、ね。

そして。

M子がいなかったら、
僕は、けっして、
美術なんてもの、知らなかったんさ。
ヤボテンの月並みけどさ。

馬鹿なんけどさ、・・
ありがとう!

Dandelion

2004年3月31日 音楽
RIP SLYME RYO-Z ILMARI PES SU DJ FUMIYA CD ワーナーミュージック・ジャパン 2004/03/17 ¥1,260DANDELION(仮) 他
アルバム『TIME TO GO』から約8か月のインターバルを経て届けられたニュー・シングル。アコースティック・ギターとバスドラとオルガンを中心したバック・トラックは、70年代のフラワー・チルドレンっぽい空気感をたたえている。と同時に、2004年の春の気分をばっちりアップ・ライズさせてくれる健康的なパワーが充満していて、DJ FUMIYAの…

特にコメントなし。元気でやってます!
さぼった仕事が立て込んできて、忙しいけど。
追い風、順調。文句なし。
朝は6時から、FM流し快調です。
朝のBGMで、上やってたので、おいときます。
ほいじゃーねー。

Confession.

2004年3月29日 恋愛
左上の写真は、モン・サン・ミッシェル。
歴史に揉まれた孤島の大聖堂。
何か生き様を象徴するようで・・。

でも、ほんとは、
行ったことのある、
グラナダのアルハンブラ宮殿に
したかった。

数々の旅行先でも特に心に残ったのは、
夕日に映える、白のアルバイシンの丘。
そしてイスラムの最期の夢の離宮を舞台に、
ぼくはそのアルハンブラ物語を素材にした。
イスラム最後の王と、
新生キリスト教徒の女王イザベラとの邂逅の物語を
書き残したかった。
歴史の没落、そして新たな時代の到来を告げる必然と、
歴史の波に揉まれ、けらし戦わざるを得なかった、
愛しあう王と女王の戦いと悲恋の物語の戯曲化を記念に。

もう、7、8年前にも埋もれていた、
未完の戯曲(はじめての作品)なんだけど・・。
でもなんだかんだで、
まだ作りあげることはかなわなかった。(苦笑)
いつか完成するときがくるのかなあ・・
まあなつかしいし、大事にとっておいて。

昔の友達に会うのは、
忘れていた もうひとりの自分探しのため。
もう、時間がないのは、わかっているし。
あえてM子さんと話し合って
友達の仲としてもらうことにした。
もう少し冷静に客観的でいたいので。
あとは、昔と今にいたっての
もう一人の自分探しへ出ることにした。
(好きだねえ。阿呆だね。)
まあいいことあればいいなと思って。

しかして、美大院のM子さんからして、
ぼくは、意外なことに、
かなり、純粋で危なく見えるらしいので、
その点、気をつけろ、と。
ほんとうかなあ。・・よくわかんない??

何はともあれ、
自分探しへ再出発と心を決め。
楽しく、揚々と。

(・・過去の話に戻せば。)
ここ10年合わせて よくよく考えてみると。
ぼくは、20のころ、
あの秋田美人の、小野沢(旧姓・佐藤)伸子さんと会って、
あれがぼくのクライマックスだった。
もう一番好きで、好きで、どうしようもなかった。
(本好きな、ただのふつうのお姉さんだけど。)

今はただの思い出で泡と消えた。
だが、しかし終わってみると、
あとは、もうみんな、どうでもよくなっちゃって。
穴を埋めようともがいたけど。
申し訳ないが、結局似たりよったりだった。
考えてみれば、恋愛燃え尽き症候群?
そう、この人、その普通のお姉さんとの、
狂い咲きで すでに終わっていたのだ!
それで、その分身を追い求めたり、
また過去の呪縛から逃れようと、精一杯だった・・
だから、ほんとに、馬鹿で失礼で、
実は申し訳ないとしか いいようがないのだ。

やっぱり、自然がいい。
無理がたたると、うまくいかないことばかり。
M子さんにしても、無理はだめ。
頑張って、頑張って、無理はけっして良くないね。

でも、
僕が好きになるのは、
実はみんな似たりよったり、
同じような人なんだけどね。
しかも、結構、
黒星連敗、だったり。(笑)

だから、ぼくは、
実は、小野沢さんの、
ただの分身、空蝉だったかもしれないが、
でも、それじゃ、やだよね。だめなんだよ。
だから、自分を変えるために、
いろんな人と会い、がんばった。
で、それぞれ好きになったし、
みんな、かわいかった。
Mちゃんも、そのうちのひとり。
でもそれはそれでべつに、みんな、かわいかったんさ。

けど、僕がダメじゃ、
ほんとにだめなので。
まあ、こんども、
やるだけやってみるだけなんだよ。ひとつね。
そう、あの小野沢さんの、借りを返すためにも。
そうなんだよ、
きっとね。

(おわり。)

マドモワゼル。

2004年3月28日 恋愛
自分の心に揺れを感じる。
嬉しいことに よく友達とおしゃべりできた。
世界は広いな、と思った。
たとえ付き合う人がいたとして、それでも、
別の友達がいれば また違う観点で、ものが見える。

W大を卒業後して仏へ留学帰国後、
某TV局で働いてる某女史に会いに行った。
むかしの愚連時代の仲間である。
その変わりようの驚いたこと!
どこぞの芸能人かと思った。
昔からハイカラで洗練清潔感のある人だったが、、
今は局アナもどきでないか。
・・少し派手めに、なった?
都立新宿高校出の大阪育ちで
多少風変わりな、関西風味の持ち味の
茶目っ気のある人だったが。
おフランス行きが微妙に変化して、
なあんだかすっかりマドモワゼルになっちゃってるよ。
でも、確かに、
僕が不釣合いで、まったく浮いてしまうものの、
青山、六本木のオシャレ系探索紀行は楽しかった。
・・まったく、僕の知らない、
別の感覚の人になっちゃってるとは。
人生、環境でわからんもんだね。
しかし、よくも私のダサぶりを強調してくれました。
次回は、お礼に加えて、
たっぷりrevengeに徹します。

それにしても、Y市出身の、若い(そしてイモっぽい)
しかしてT美大院でご活躍中の
Mちゃんがまあすごいなと思っていたら、
まったく、正反対のぜんぜん違う輝きを放つ、
同世代君が少しも引けをとらず健在だったのは、驚きでした!
ほぼ、同世代終了とあきらめてたのに。
ほんと、ものすごい力強さと希望を感じました。
僕らでも、(女性も)
まだまだやるときゃやるんですね。
しかも明らかに経験の魅力が加わったのは
これはMさんにないものなんですね。
初めて知りました。ありがとうです。

なるほど、
まだまだM子世代には負けられないようです。
だから、やっぱり、
がんばるしか、ない!

それにしても、
仏文、仏音楽、知ってて良かったな!!間一髪。わっはっは。
ISBN:4063289362 コミック 佐藤 秀峰 講談社 2004/02/23 ¥533

お題はほどほどに、よもやまを交えるか・・?

たとえば、一曲に始まりと終わりがあるように、
生と死も、そのターニングポイントがある。
生き様が人さまざまであるように
終末像も、またさまざまであり
日常に生の謳歌があふれて忘れ去られがちな終末へ
さらに思いをめぐらすのは、むつかしいことではあるが、
人それぞれのエピローグに 一定の執行猶予のもうけられた
癌死の生に対する自覚への促しは
やはり激しい痛みや実感がこもるものである。

結局、生のエピローグは
各人の生き方の集大成であり、
その限られた時間においては
各人にゆだねるほかは、ないのであるが・・。

死といってもいろんな死に方死に場所があり、
大往生からmiserableなものまでさまざまであるが、
恐らく自覚の伴わない急死より、
納得いかれるものも少なからずあろう。
どんなに長生きしようとしても
いつかは誰しも死は訪れるだろうし、
逆に永遠に生きられるとすれば、
それこそ無目的な、一生退屈な人生の恐怖で満たされるだろう。
はなはだ一生が短いのは残念であるが、
けだし、神様のくれたプレゼントくらいに
考えておいたほうがいいのではないか。

確かに抗がん剤投与による、
大規模臨床試験の展開は
それ相応の副作用と延命をもたらし
一部に寛解に至る奇蹟的事象をもたらすが、
癌死が生命期間を短くするのは現在間違いないし、
基本的に死を免れる病気でもないのである。
ならばこそ、生とみつめ合い、
死と共存しあう生き方。
その手ごたえを十分に実感する時間である。

実際の死の克服、闘病には、
限界を超えた痛みや、体力・精神的苦痛を伴い、
およそ想像もつかぬ大変な労力を消費されるだろう。
緩和ケアなるものは、その限界なる緩和対症療法に努め、
なおかつ十分な精神的よりどこりの支えを
提供しなければならないのであるが・・。
ただし、病状悪化に伴う病識や治療意欲の変容は
恐らく対処に選択の変更を迫られ、
かつ緩和ケア俗にBest Supportive Careなるものは
現在の完治より遠く離れて、
治療を断念し死を受け入れざるを得ない状況に至った
積極的治療の除外を宣誓された方の総体である。
医療の限界を思い知り、
なおかつ生き頼らざるを得なくなった方がたの
残された人生の使い道。
それを、肯定的に受け取り
暗中に活かす道の模索こそが
この医療、ケアの積極的考え方の神髄である。
逆にいえば、
一見病に侵され、不自然に受け取られた死に道を
いかに自然死に、ひいては自然な生命の終焉へと
導ける努力、納得いける自然な死に方へのアプローチが、
この医療の最大のテーマでないか?

実際、患者さんが、
死の手前一瞬、生のこうごうしさを解き放ち、
最後のエピローグへ至るドラマを演出し、
残された生き行く人々へ
最後の道標をわたし 生の歓喜を生き伝え、 
生の輝きを残してゆく数々の場面。
およそそれぞれ、
いうにいわれぬ感慨ぶかきものがあり
ただただ首肯を垂れるばかりである。
ISBN:4001156768 単行本 内藤 濯 岩波書店 03/2000 ¥1,000 著者の生誕100年を記念し作られた復刻版。挿絵は著者自身が描いた米オリジナル版そのままの絵が載せられている。これまで親しんできた挿絵と比べると輪郭がはっきりしていて鮮明、そのほかにも「ささいな違い」を見つけながら読み進めていく楽しみもある。 本書は、ストーリーの展開を楽しむ意味においては子ども向けだが、むしろ大人…

「ほんとうにたいせつなことは 目にはみえない。」
最近、そんなことをふと考えてしまいます。

あくまでもぼくが追っているのは、
目にみえるカタチ。
物質、理論的なもののあくなき追求。

だがほんとうに形として残るのものはなんなのか?
人から人へ伝わるものはなんなのか?
研究という禅問答さながらに
満たされぬこころを前にして
ぼくは自問を繰り返してしまいます。

大事なものを見落としたまま
上っ面な自己満足の仕事だけで納得し、
忙しさにかこつけて
大切なものを見失っていなかったか。
答える自信がないのがなんとももの悲しい。

限られた24時間を生かすべく
自分の領域を人へ譲り、
カタチにみえる仕事へ没頭して結果を残すも
やはり納得いかぬのはなぜなのか。
答えは明瞭である。
大切なものさえ切り捨ててしまったから。
残されたものはただのセミの抜け殻に過ぎないということ。

別に自己を卑下しているのではなく、
さらに自分の仕事に完成を見出せず、
明らかに不足と同感に欠けているからこそ。
残りの空白の部分が目に余るのだ。
「ほんとうに目にみえない たいせつなこと」
その言葉が空虚な胸に突き刺さる。

ただの自己満足で終わるのが結果じゃない。
ただお酒を飲んで騒ぎ遊ぶばかりが楽しみじゃない。
独りよがりの芸の没頭だけが生きがいじゃない。
自分の主張を納得してもらえるばかりが仕事じゃない。

たった一回きりの 大切な人生。
みんな全員で
生き抜いてきてるのだという。
その生きている気持ちを全面へ押し出すこと。
ひいてはその気持ちをはぐくんで
わけ与え育てることができるならば。

ものすごくかんたんな 
目にみえない たいせつなことは
実はすぐに目につく そのへんの
当たり前のところに転がっているかもしれない。

置いてけぼりの大切なバラの花。
それにふたたび気づいて 取り戻すこと。
それがほんとうの
王子様の たびの始まりだったかもしれませんね。

やがて無用な禅問答から
大切な答えが引き出せられるのか。
とにもかくにも
不足を補い 実行しうるのならば、だと思います。



 
 

岐路。

2004年3月23日 恋愛
突然、メールがらみの連絡で、
昔の親友に会いに行った。
なかなか忙しくて
会えるもんじゃないと弁解しつつ。
(だって1回1時間も会えないでしょう。)

元気そうで、なによりと。
よもやま話にけりをつけ、
そろそろ席を外そうとした瞬間、
突然、まったく予想外のお話を
切り出されてしまった。。。

うーん。なんとなく、ひょっとしてと
思ってはいたけど。
(めんどくさいから、
 こういうの
 なるべく避けようと思ってきたんだよねー。)
最近よくある話なんだよなこれが。

簡単にいえば、
仮に付き合って欲しいと。

簡単にお茶を濁して
出てきてはしまったものの。

うーん。
同時に二人のお相手など
務まるはずもなく。
ただ、今、
もともとの方は
ただ何となく、
たいした確かなお返事もなく
ずるずると今に至るわけで。
フィーリングや
気持ちがという合うというだけで
ほとんど先のことは保留の状態だった。

もうひとつの問題は、
家業が同業であるということ。
今まではじめてのことで。
一度も考えたことなかった。

そしてもし、
これを例の御女子がみれば、
頭に火がついて湯沸し器はスパークし、
僕にメデューサの首とナイフが
送り届けられること間違いなし。
といって、今更振り向いてもらえてるわけでもなく。

・・どうしたもんか。
ただ、あっちは1回断られているわけなんだし。
あえて付き合う義理もない。

まあ、冷静になって、
落ち着いて話を聞いてみてから。
嬉しい半面、
僕にそういった淋しいオーラがでてるのか?
情けないねえ。

まあ、合コンというのも
ひとつのテではあるけれど。
それももったいないなあ。
とられるのやだし。
    ↑
  (馬鹿。)

まあ、嬉しい誤算としよう。(???)
  
03月21日付 日経新聞の報道「関係者から続々と花・故いかりや長介さん自宅」へのコメント:

世界の大スターがとうとうお亡くなりになられました。

僕の小さい頃、地元でのジャンケンは、 
 「最初はグー。
  いかりや長介、 
  あたまは パー!
  ジャン、ケン、ぽん!」
 でした。
 馴染みやすさに首を下げました。

笑いの原点ですね。
PTAのブーイングというのが、
今では可愛らしく、尚かつ笑えます。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。合掌。

追伸。
 

ペンネームで、
「毛ムクじゃら」 
 とあるのは、

いったいどういうセンスの方なのでしょうか。

さあ、みんなで、考えよう!
DVD シリーズ3部作の完結編は、見どころに次ぐ見どころ。3時間23分という長さは、まったく苦にならず、結末では「旅の仲間」とともに、観客もシリーズとの別れを惜しむことになるだろう。邪悪な指輪を捨てに行くフロドとサムの過酷な旅がついにクライマックスを迎える一方、人間の国ゴンドールの都ミナス・ティリスを陥落させるべく、指輪の創…

たまたま見に行けてよかった。
見所のわかりやすいハイライト・シーンがたくさん。
原作では想像もつかない、リアルな場面。
スピード感といい、映像といい、文句なし。
ヨーロッパ、北欧の伝説・民話に基く傑作だけに、
西欧圏で否定する人はまずないだろう。
でもって知り合いのカナダ人女性に聞いてみたら?
ん?ハリー・ポッター?だって。馬鹿にすんな。
ロケ地はニュージーランドって、
こっちが教えてどうすんの。
ちなみに、ハイテンポなリズム感はいいけど、
ちょっと戦闘シーン多くない?
それと原作知らん人は、
あれみてもなんだかちっともわからんと思うな。
てなわけで・・・。

本文とぜんぜん関係ありませんが、
わたくし、本日大発見をいたしました。マンセー!
前からの勘で大体アタリはついていましたが、
本日ものすごい○○が出るにあたり、
おもしろいこと間違いなし。
恐らくきたるべきマニアック領域で、
しかしてニホンの舞台であっといわせるでありましょう。
ここでは断じて披露できませんが、
ニホンのしかるべき大御所の
アッケラカンとした顔ぜひ見たいものです。
少なくともこの域で
ニホン世界のトップに躍りでました。
とりあえずこの発見、先を越されないことを祈りつつ。。
フオッフオッフオッ。

Gaspard De La Nuit.

2004年3月12日 音楽
RAVEL / ROUVIER CD 1992/10/28 ¥1,775

「夜のガスパール/アロイジウス・ベルトラン」より3編抜粋      (及川茂訳)

「オンディーヌ」

「聞いてください!聞いてください!私です、オンディーヌです。淡い月の光に照らされた響くような菱形の窓に、しずくとなって軽く触れているのは。波の衣装をまとって、星のまたたく美しい夜と、眠りについている美しい湖を露台から見つめている水のお城のお姫さまです。

「どの波も流れを泳ぐ水の精、どの流れも私のお城へうねってやってくる小径、そして私のお城は、湖の底、火と大地と空気の織りなす三角形の中に、流れるごとく建てられています。

「聞いてください!聞いてください!私の父は、緑のはんの木の小枝で立ち騒ぐ水を打ち静め、姉たちは泡の手で、草が茂り睡蓮やグラジオラスの咲く清々しい小島を愛撫したり、釣り糸をたらしている老いて髭のはえた柳をからかったりしています!」

水の精はささやく声で歌いながら、私に哀願するようにいった。彼女の指輪を私の指に受けて、オンディーヌの夫となって、湖の王としてともにその宮殿を訪れようと。

だが、私は、やがて死ぬ運命にある人間の女のほうが好きだと答えると、機嫌をそこねた恨みを胸に、幾しずくかの涙を流したかと思うと、とつじょ甲高い笑い声をあげ、青い窓ガラスに白々と流れる水滴となって消え去っていった。

「絞首台」

ああ!私の耳に聞こえるものは、鋭く音を立てる夜の北風か?それとも絞首台の上で吐息をつく首吊り人か?

あれは、憐れみ深くも絞首台の根元を靴のようにおおう、苔や花の咲かぬ木蔦の陰にひそんで歌うコオロギか?

あれは、もはや聞こえぬ耳のまわりで獲物を追いつめ、狩の角笛を吹く蝿の音か?

あれは、気まぐれに飛びながら、禿げた頭から血みどろの髪を引き抜くかぶと虫か?

それともあれは、縄の巻きついた首に襟飾りにしようと、半オーヌのモスリンを織る蜘蛛の奴か?

それは地平線の彼方、街の壁に鳴り響く鐘の音、また夕日が赤く染める首吊り人の残がい。

「スカルボ」

ああ!いくど私は奴の声を聞き、奴を見たことか、スカルボを!黄金の蜂をちりばめた紺青の旗の上に、月が銀の楯のように輝く真夜中に!

いくど私は壁がんの陰で奴が笑う声や、爪を私の寝台の絹のカーテンに軋ませる音を聞いたことか!

いくど私は奴が天井から下がり、魔女の紡錘竿から落ちた紡錘のように、片足で旋回し、部屋の中を転がるのを見たことか!

それで小人が目をまわしたかと思いきや、尖った帽子の先に金の鈴を鳴らし、まるでゴシック式カセドラルの鐘楼のように、奴は月と私のあいだにぐんぐんと大きくなっていった!

しかしまもなく奴の体はロウソクのロウのように青ざめて透きとおり、その顔は燃え残りの炎のように青白く…、そして突然消え失せた。

酩酊船。(改編)

2004年3月11日
 
 無情の大河を流れて下ったとき、
船頭の綱をはじめてさわってみた。
 騒がしい外国人が、船曳きを標的にし、
色とりどりの杭へ身ぐるみを剥がし釘付けにしてしまうと
 ・・船員のことはすっかり忘れ、
麦の積みわらや光々しい生糸に目が眩んだ。
船乗りの騒ぎがおさまってしまってから、
その「 大河」はゆるがままに流れていった。

 潮の猛り狂った波音に抱かれ、
去年の冬、
 ぼくはだれよりも走った。 
  
 ゆるゆると動き出した陸の線。
あれほど勝ち誇った大騒ぎもせず。

・・そして嵐がぼくの海の目覚めを祝った。
 ぼやけた灯火を懐かしむこともなく、
生贄を転がす波間の上、

 浮きよりも軽く、十夜続けざまに、
 踊りの女神がささやくのだ。
こどもたちには酸っぱいリンゴの実より甘い、
緑の潮の水の流れあと。
 船体に染みこみ
舵も錨も流し去り、
安酒と反吐の染みを惜しみなく洗っていた。

 するとぼくは星屑の光をあび、
 緑なす青空をむさぼり、
 乳色に染まり、「海」へ浸ったのだ。

 青白く恍惚と漂う、
不気味に物思いにふける水死人が
 ときおり沈んでいる海。

 青い波を
 一瞬のうちに染める太陽の、
赤いきらめきを映す熱狂と穏やかなリズム。
アルコールより強い、天使の竪琴より広大な
ほろ苦い赤茶色の染みが発酵する海!

知るも否も、
 雷に空は裂け、竜巻は狂い、
怒涛の潮の流れに彷徨いて、

 ぼくは知るのだ
 あのたそがれの甘き夕暮れも。
 その一群れの白い鳩のように騒ぎ立つ「夜明け」にも。
 そして ぼくは人間が見たと信じた物をときおり見たのだ。

 そうだ、神秘的な恐れに染まりくり、
果てしない曙の紫雲群らなす、
 染まりくる暁に燃え出す太陽を。
まるでいにしえの劇の俳優のように、
大波がよろい戸の震えをはるか彼方に転がし、
 夢見る、目のくらむ雪の緑の夜。
ゆっくりと海の波頭に接吻は浮かび、
 未聞の精気はゆるゆると循環し、
映え出づる 燐光の黄と青の目覚めのときを。

ぼくは追った、満月の夜、
 大日如来の輝く足が
 僕らの大海原の鼻つらを
 抑えこめたともいざ知らず、
 狂乱した牛のように暗礁に漂う大波を。

さらに仰いだ。
 人皮も剥ぐ雌トラが
 花とも混ざった熱帯夜。
水平線の下、海緑色なす群青の羊の群れに
手綱のように脅え張り渡された虹の如く。

 たとえてみれば、いにしえの、
 巨大な沼地に息つく親切な生亀に、
土砂のましたへ海壁が崩れ落ち、
渦に向かって落ちる夢、
 崩れゆくはるかないにしえの物語。・・・
    
しかしてみよ!
 流氷よ、氷河を、銀の太陽を、
 真珠色の波を、烈火に燃ゆる空を!
黒い香りとともに、よじれた木々から、
南京虫に巣食う大蛇もへたれ落ち、
茶色い入江の底の忌まわしい浅瀬をみやっては、
こどもたちも見せてあげたよな
波間に浮かぶヘダイ、金色の魚と、歌う魚たち。

――とうとう走り出すぼくの胸間へ泡の花はゆすって、
ときどき心地よい風が翼をくれた。

ときおり、海はすすり泣きながら、
 ぼくたちを優しくゆすり起こし、
 黄色い紅玉の花へも みせてくれた。
 そう、 極地にも赤道帯にも飽きた殉教者のこのぼくらに・・

ぼくはひとりマリアのように、
 ひざまずいたまま岸壁へ留まっていた…

 船べりに群れた
 騒々しい群青の目のカモメと、
揺すりながら、ぼくはまるで群島のように
 残壁に留まってしがみついていた。
それから、ぼくは、か弱い止め綱を横切って
眠れる水死人が沈んでいったときへ、後ずさりした!…

 ところが、熱帯風に
 鳥も飛ばぬ天空まで引き剥がされて、
 その入江に茂る藻草の下、

 ぼくは沈んだ船と海のなか。
潜水艦も、大陸の軍旗船も、
 水に酔いつぶれた骸骨を引き上げられるはずもない。

紫の露と消え、
 気の向くままの煙をはき、
 巧みな歌い手のラッパうた、
 太陽の苔と青空の鼻汁を雲に乗せ、
 壁のように赤く映える空を見殺しやった。

そして燃える蛾如く渦巻く漏斗の群青の彼方へ。
白い閃光が棍棒の白雲を打ち崩し、
電光の一瞬、見ゆる黒い海馬を従えて、
ぼくは狂った板子の彼方へ遠く飛んでいった。
 そう、海獣ベヘモに渦巻く大渦潮へ、
百里はるかのうめきを感じつつ、
 ぼくははるかその頭上を飛び去っていった。

・・そして揺るがぬ永遠の紡ぎ手たちを誓いつつ。
その古い土くれのニホンの土を還りみやった。
 またぼくは輝く異郷の南国島の星空を見渡した。
静かに熱狂的に沈む百万の空を懐かしむ
 航海者にうち開いたその島々を。
――一千万の金の小鳥たちよ、輝く未来に向かって。
この底なしの夜の中に、ぼくは眠り潜もうとも――
そう、本当に、ぼくはあまりにも泣いた!
 その「夜明け」は痛ましい。
そして月はすべてむごく、太陽はすべてほろ苦かった。
ところが辛い愛が、恍惚とした麻痺でぼくを満たした。
そうなのだ。・・波頭よ、竜骨よ、砕け散れ! 
 そう、ぼくは夜の群島へおもむろに赴いていった。

 もしも、ぼくが日本の水を顧みて、
そのかぐわしい たそがれどきのほのかな大地に
たとえて悲しみにうずくまる女の子が、
五月の蝶の甘い蜜を放つとき。
その刹那に浮かぶ満月へ、
 新たな憂鬱な願いを適えられるとき。

お互い飛び交い蝶にまぎれ追い抜かれることもなく
たそがれ時の海の彼方へたなびいて、
 永遠の始まりの海鳥音に耳を傾け、
 遠い未来の鐘の音に耳済ませれば、

 遠く輝く今生の群青の彼方、
 あるがままの光の世界を、
 誓い見やろうとも、
 できるのだ。・・
 いろいろ悩んで考えていて
 答えがみつからないとき
 本当にその局面での
 正しい解答などないに等しい。
 
 悩んだ末の回答に
 正誤などあるはずもなく
 ただ、その場にふさわしい
 選択肢のひとつを好みで選んでみただけ。

 この好みが曲者で
 たいていは勝手気ままな
 無責任な好き好きで決まってしまうだけ。
 考えてみればむごい話である。

 はじめから考えてみると、
 そうそう各人めいめいにたいそうな違いなどなく、
 おとこもおんなも、
 同じ保育器の中で生まれ育ち、
 ただ分け隔てのない愛情で生まれ育ってきたのだ。

 罪びとにしろ、
 生まれたときはみんな全員かわいい赤ちゃんなのだ。

 狭いニッポンの中で
 どこそれの生まれ育ちとか
 お顔や体つきとか
 考えてみればつまらない話で、
 ただその場で、それぞれのおかれた中で
 普通に努力してやってきた仲間に過ぎない。

 小さな違いをことさら大きくみせて
 際立たせて隔てるような
 つまらない考えは払拭したい。
 レッテルの貼られた周囲の環境は
 たまたまその場の偶然から成り立っただけで、
 そこにみせかけのヒエラルキーがあるに過ぎない。
 くだらぬ紋付きはかまはさっさと捨てて
 しがらみにとらわれない
 ありのままの 元の自由なぼくたちを
 もう一度みつけれればいいなと思う。

 何年の付き合いにしろ、
 はじめはただの偶然が重なって
 なんとなくその場を過ごしていただけにすぎない。
 ただその場のしがらみで
 慣れ親しみ生きただけにすぎない。
 
 その偶然の出会いの
 どちらに重きがあろうはずもなく
 ただ漠然と
 そのどちらかの偶然に慣れ親しみを感じただけである。
 出会いとはそんなもので
 だからどちらがどうというはずのものでもない。
 ただ時と偶然の流れに身を任せて、
 良かったな、楽しかったなと
 思えていただけである。

 だから過去にこだわるふうもなく、
 さして未来も心配せず、
 むかしもいまもかわりなく
 ただ当たり前のことを当たり前のように感じて
 今を風のようにさらりと生き流せば、
 そう悩みもみせず、
 ありがままをありがままに受け止められ、
 恋も含めて毎日を楽しく
 さらに過去の我執に埋もれることもなく、
 しぜんと自分流に楽しく生きれるかなと思う。
 このこだわりなく「自分流」に生きるということ
 悩んだあかつきの回答として
 おすすめしたりしますが、どうでしょう?ヒデヨシ君。
 
 
 
 
 
 
 
行方不明のMさんへ。

白馬へ
スノー・ボードへ行かれたっきり
ご連絡ありませんね。

携帯も、
いつのまにか
AUへ変わってるのは
どういうことなんでしょう。

ご一報お待ちしてますね。
 
 ・・いまどきの子はむつかしい。
   
  なに考えてるのかわからない。

  べつに僕のことはどうでもいいです。

  アナタ自身のことなのだから

  アナタが考えて、決めるべきです。

  僕はなりようでいかにでもなれます。

  だから、まったく心配無用。大丈夫。

  君が思う存分、

  好きなように、やりたいことを、

  やりさえできれば、それでいい。
 
  つまんないことは、まったく気にするはありません。

  わかったあ?

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