前述の、様々な女友達について。

一人はO陰から女子医を出て、KOの医局に行った、
消化器内科の先生である。
非常にさわやかな知的美人で、好感度抜群である。
ただ、表面上はひかえめで、別の医局と慣れない環境で、大変だとこぼしていた。某世田谷区K沢にあるk立病院T京医療センターに赴任後してから、本来の明るさを取り戻している。
僕は、正直、彼女の明るく知的な頭の切れには、およそかなわない。男女を越えた公私ともどもの良き相談相手として、大変貴重な存在である。しかも世のアマタに通ず。O陰の教養恐るべし。(彼女は今、山のように付き合いアプライがあるらしいが、とりあえずまだ誰とも付き合う意思はなく、それも願わくは同業じゃないほうがいいといっていた。でもオトコまさりとはまさに反対の方で、その辺の事情がまだよくわからない。やっぱり同業って、どこもきついんじゃないかな。変なのもいるしね。)

KO経済から東京O菱へ行った、丸の内Brain。彼女は若くしてKOの先輩に徹底的に鍛えられ、日本の金利情勢を牛耳つつある。彼女の左脳から繰り出された細かな正確な計算値が会議決定を経て承認され、全国支店の利率変動へと一斉に動いていく。ただそのプレッシャーのため、彼女の生活は夜ごと事実上崩壊し、毎夜彼氏でもない僕の所に電話をしての上司の愚痴で、ぼくは散々困った。彼女は現在、生活を立て直し、ファイナンシャル・プランナーの資格取得を目指し勉強中である。非常に時間金銭に厳格な人で、信用をなくすと付き合ってくれなくなる。だが僕はそんな彼女が初めて崩れた優しい一面をみせたので、気合一発元気の声をかけたのだった。

T美大院のM子嬢、最年少である。1回振られたが仲を取り戻している。ひたすら版画製作に専念しているが、根をつめると体に毒なので、後輩を紹介してあげた。でも正直小野真弓に似て最高にかわいい。器量よしダントツNo1である。本人も面食いで、モテルくせに僕を含めて対抗できるオトコがいないので未だ一人身である。美大出身ということもあり、面白さも抜群。ただ少々躁鬱である。ものすごいオトボケと想像力の塊の反面、中身は大変シャープで、カミソリのような切れ味で感覚を一刀両断する。その手腕は例をみない。公私でも勘が鋭いので、ナメルと大変である。彼女の妹も頭が切れて、KO経済で公認会計士を目指し勉強中。なお彼女はT木県代議士KD財閥の孫娘で、横浜みなとみらいに広大な跡地を持つ究極のお嬢様である。

W大仏文はT立N高出身の子である。彼女は僕と演劇「他人の顔」を演じたヒロインであり、当時舞台女優でもあった。大阪弁の異能も持つ。非常に明るくさばけた感じだが、少々風変わりである。突然連絡が途絶えてから帰ってきてみれば、フランスへ行ってたとの事。でも南仏にも行かなく、実際は狭いパリの袋小路にじっとしていて何もしてこなかったらしいのである。帰国後、某TBSの報道の裏方で、画像と字幕の同時翻訳から、素材の種分けなど大活躍している。演劇は足を洗ったとか。報道マスコミ関係は地味な仕事だといっていたが、不定期の合間に青山六本木を遊び歩き、なんと大橋マキと村路佳織を紹介してくれた。人間わからぬものだ。最近結婚され、少しく疎遠しているが。

上智外国語学部仏文の子。妹さんはKO出身。英語仏語ペラペラ、音楽美術アウトドア、なんでもござれのマルチ姉御肌である。外大を選ぶ前は音大を目指し、なんでも在学中は美術部で油絵をナラしていたという。文学よりは実用語学に関心があり、英語はもともとできるので独語か仏語を専攻したという。しかしかなりの努力家である。就職後服装企画という趣味実益方面に方向転換し、まあ一種のデザイナーとして、特技の仏語を生かし活躍成功し、年500万の収益を持つ。しかし一番普通っぽく器量も普通。だが趣味多芸な彼女の友達の周りには海外帰国子女も多く、好奇心旺盛かつ外的関心度も非常に高い。留学にも大賛成を示してくれている。現在のところ、とりあえず嫁さん候補NO1になりそうだが、はたして?

異色なのは、東京芸大創立者、黒田清輝の直系子孫T矢嬢である。自分の知り合いで、実はこの人究極のお嬢様NO1である。この人はっきしいって、天皇の親戚、華族である。寺田屋事件、薩摩の人橋O玄Oの弟、サッポロビールの創始者で札幌農学校総長、橋O文Oの子孫でもある。この橋Oから婿入りをしたのが
かの日本海軍元帥、初代台湾提督、樺山資紀であり、その娘がかの白州正子、白州次郎(天皇家の教育係)の妻である。いずれにしても歴史上の人物である。彼女といえば黒田画伯の志を受け継ぎ、絵付けと壺に専念していた。本人はいたって穏やかなのだがかなり気難しい。ある日突然思い立って甲州街道100キロ、ママチャリに乗って富士五湖の西湖まで行ってしまうから恐ろしい。思い立ったら止められないそうなのである。(病気か?)マラソンランナー、フェンシングの選手でもあった。特技は丈夫で長持ち、でも頭は弱いのだそうである。しかしこれが面白いといって、ナメて口の利き方を間違えると大惨事となる。マジ発狂して刺されます。美大のM子にこれを話してたら、面白そうに眼をパチパチして聞いていた。上には上がいるもんだなと。(でもそんな上いらない。)

以上、とりあえずの武勇伝を乗っけときます。しかし、いろんな人いますね、ほんとに。でも、これ以外にも面白いのはまだあるんですけどね。内緒にしておきます。

しかし、無資格の文系諸君は、会社辞めたらただの人。その辺、わかってんのかな。はっきりいって、どこの大学出ようが、大差ないと思います。だから資格持って働けるのが、やっぱ強いんじゃないかな、と雑感して終わり。(殺されるな・・)
僕の、異性の友人は、
結構いるんですが。

大学名だけいうと、
慶応経済、英文、早稲田仏文、上智仏文、多摩美、音大、女子医などなど。

結構、ふつうじゃないと思っていたんですが。

でも、ね。・・。

ひとりとして、結婚してくれないじゃありませんか。

どゆことん・・・。

やっぱり、何か問題なんですかね。

問題なんすか!

・・一応、今度も上智と慶応の子から

Applyがきてて、結構いい感じですけど。

また、はじめだけで。

フラレるんじゃないでしょうね。

・・。がっでむ。
それが誰であろうと、関係なく。

たまたま彼女を好きになって、

そして、たまたま一緒に、

楽しい夢をみてこれて。

でもそれは、誰かにとっての格別な夢なんかでなく、

だれでもいっしょに分かち合えるもので。

それは何より楽しいから。

だから僕は、ちょっと引いてみて、

おんなじ夢を、

みんなにみせたいと考えた。

ちょっと、わき目にそれて

すこしの別れはちょっと我慢すればいい。

これは、いつも好きな子にしてあげたことだった。

でもそれが、ほんとにいいことなら、

そして、その愛情がきっとほんとうなら、

きっとその夢は、いつかまた僕と彼女に帰ってきて、

夢の続きを、きっとみせてくれると信じている。

(たまたま付き合う相手にも、違いはない。

みんなが、それぞれに別の良さを持っている。

そんな異なる相手に、僕がみているのは、

でも、いつもおんなじ、

あったかいものだった。)
本当に好きな人は、ひとり。
それは、やむを得ない。

どうしても、その子を、守っていく。
それも、やむを得ない。

現実に結婚できるのは、ただひとり。

でも、ぼくは、その彼女だけは、
結婚、恋愛以上の絆を持っていて、
お互いそれを熟知している。
たとえ今ぼくが彼女と結婚できなくても、
その絆だけは、たとえ彼女や僕が
ほかの人と結婚してしまっても、
もう変わることのない絆であることを
お互いは知っている。
それだけは、守ってゆきたい。

だから彼女が幸せになるのならば、
僕はどんな犠牲も惜しまない。
たとえぼくら二人がどんなに変わろうと、
それはまた永遠に変わることのない、
僕らはそんな幸せな気持ちで一杯である。

それは、恋愛、結婚なんかの感情を、
とうに超えてしまっている。
愛情、信頼に満ちた、
幼馴染としての人間の証である。
しごく、タブーに近いお話で。

ぜんぜん、関係ないんですけど。

はっきしいって、無宗教です。

別に、無節操とかでないんですけども。

ぜんぜん、クリスマスとか、初詣、七五三とか、

ごっちゃでいいーんじゃないでしょうか。

それに当然でしょうが。

押し付けがましい、勧誘は一切お断り。

押し付け、他人の迷惑、大嫌い!

時間泥棒なんて、フザけんな、ですよ。

もっと日常に、眼を向けろってんですよ。

そういうもんにすがる、不条理な可哀想な人が一部にいるのも

わかるんですけども。

ちゃんと仕事して、

お金稼げってんですよ。マジで。

個人的に、タブーに挑戦ですが。

仏教いまいち、神道わからん。

キリスト教は肌にあわん。

イスラムは人種すら違う。

ガネーシャ、シバのヒンズーは、

おもしろいとはおもうんですけども。

まあそれ以上つっこむとはおもわれまへんなあ。

あえてあげるなら、

少しは禅が肌にあいますかね。

座禅なら、余計なこと考えずにすみそうだし。

少しは海外にも知られてるし。

(イチローのポーズもそれに近いと勝手に誤解されてたようだ。)

不立文字、色即是空、なんとなくわからんでもない。

室町の日本文化にも近いし。

海外のガイジンに、宗教なんぞ聞かれたら、

Zen.なんて、答えてやって、

後は適当にすっとぽげてやる所存です。

(無宗教ってというとなぜかゲージンにバカにされるからね。)

いちばん肌身に合うのは、

得手勝手、ご都合主義。

こいつに限りますね。

マジ、こいつに限る。(笑。)

もひとつ。

日本の、シンクロ。

あの、古ぼけた、固定観念、

なんとかなんないの?

あれ、日本人には、わかるけど。

ガイジンにはわかんないよ。

だから、銀じゃあないの?

誤解されやすい忍者や阿波踊りなんか、やめて。

もっとカッコいい、SONY・HONDAのような

最先端っぽいのにならないのかな。

あれじゃあ、

ほんとの日本の良さが、

誤解されたままなんじゃあないのかな。

心眼。

2004年8月23日 エッセイ
かなり、オカルトじみてますが。
一応、生きる極意について、私的に解釈(?)を。

心の眼でみること。
なんて、かんたんにいわれますけど。

そのこころの眼とは、
生者必衰の眼でありまして。
要は、生きるか死ぬか、
瀬戸際の判断に通じるところ。
極限状況で判断されるにあたって、
まさにこと急を要する、
心の動きに生かされる眼、
といったものなのでありましょう。

しかしどうも、その頂点にいたれるに、
ジャンルはあえて問われぬらしい。
しいていえば、(極論でしょうが)
宮本武蔵の如く、
「見るともなしに見る」といったところでしょうか。

この、見るとは、
眼前に、日本刀で突き尽きられたような、
現出する危機的世界のなかでの
「見る」ということなのでしょう。
(生半可な状況では眼前”は決して見えてこない。)
研ぎ澄まされた感性の一点凝視を余儀なくして、
生死を越え妥協を許さぬような、こころの動き全体を見やる眼。
命を丸ごとわし掴みとるようなものだからこそ、
対象へ即した真の目的に
至れるものなのでありましょう。

かかる状況においては、まあ当たり前ですが、
対象への怒り、己へのプライド、自己弁護など
その場においての無用な、抗弁の一切などなきに等しい。
おのずと目的に迫れるに至っては、
しごく心を一点に集中させ、
対象と心を一体化させ、虚心に赴き、
その流れに逆らわず即して、
一点を渡るともなく全体を見やる。
即ち自他に通じ自在に至れるという。
見る、とは観る、ことなのでしょう。
対象の目的へと至れる道筋には、
無心全体に観る、ことを強要し、
自他ともども世界時間空間を知り尽くす、
といったことなのでしょう。
(・・オカルトやなあ。)

つまり、対象へ至れるに余計な思惑は無用。
まごころでまるごと思いを馳せ、、
また相手に即し事をなして自在に通じ、
ものを問いて言はこころへと至れり、
それ解決に通じ自在に極むという。

なんだか禅の説法みたいになりましたが。

・・煎じ詰めると、心眼とは。
人生に打ち勝つ、
極意、信念といったものなのでしょうね。
相手を怒ろうとか
避けようとか思うとき
問題は たいてい相手のなかにあるのでなく
自分自身のうちにあるのだと思います。

自分自身の反面を見て
思う姿になれない自分に向かって
腹を立ててるといってよい。

解決は、己の暴走する感情を
ただ発散・昇華するばかりでなく、
他人のまなざしのところを全身に受け止め
その意味するところを全力で考え
他人に許容されるべき
もうひとりの新たなあるべき自分に
近づく努力がなされるべきでしょう。
(まなざしとは、分析者ラカンの発想です。)

それには 本当の勇気と
忍耐、周りへの注意深い理解力が
必要とされるようですが。

例えば、孫子の注釈にもあるようです。

己を知り相手を知れば
百戦百勝、危うからず。

己を知り相手を知らず
己を知らず相手を知らば
一勝一敗。

己の力量を知らず相手も知らねば
戦いのたびに、必ず敗れ去ることだろう、と。

・・・。

2004年7月20日 エッセイ
笑えません。

携帯のメールに入る、熱い返事。

5年もほってかされて、今頃になって。

しがらみで、とりあえずかわして、

後輩でも紹介しとこうと、

ゆっくり、メールを打ってると・・

突然、別の、さるお方から、電話。

とりあえず、そちらと銀座に出ることになりましたが、、

これって、なんかマズイのでは?

不純異性交遊?

メールと電話で、同時に二人を相手してる。






フタマタ!?!



笑えません。バレタラ殺される。


どうしましょうねえ。

て、それどころでない!


しかし、はじめのほうは、
わるい女だな。くそ。(泣
マズイことになりました。

・・別にフタマタかけてるわけではないのだが・・

前から知っている、美大のmちゃん。

そして、最近よく話に付き合ってもらう、

同業のmさん。(先生。・・)

・・おふたりは、ともにその存在を知りません。

しかも、名前がほとんど同じ。

これを知ったかと思うと、・・・

恐ろしくて夜も寝られません。

これは、ひょっとして・・、

(決してフタマタでは、ないと信じてるのですが。)

神様は罰を下さったのでしょうか?

どうなることやら。アシカラズ。

・・・泣。馬鹿)

勝負。

2004年6月27日 エッセイ
海が好きで、

お天気には
サーフ・ボードで駈けずりまわっている
私です。

そのまま、
陸に上がって。

DJ・キングと化し
作曲にも手を染め出してます。
ほとんど。無目的ですけどね。

かなり古い、
サイバー・トランスや
サイケデリック・ゴア、
はたまたデトロイト・テクノ、
マンチェスター・ムーブの名残をとどめて、

なんとなくサイケな
あやしいものが
出来上がりつつあります。


また、ある人に
勝負もいどんでいるのですが。
なんとなく。返事は、・・

 

保留??
だそうです。


・・何ですか、ホリュウって?

ハッキリせいっつーの!!
これ、なんだか、よくわからないけど。

1年ぶりに、ご作品のアップ・ロード、見ました。

1年前。はやいものですね。

これをみてると、
そうですね。また、
ワールドを思い出しちゃいましたね。
なつかしいなあ。

ぼくは、また、
ぜんぜん違うほうへ足を向けてますけど。
きわめて、順調です。

また、ちかじか、
身を固めたら
ご連絡しますね。

再会を心待ちにしています。
         Mちゃんへ。
今の仕事は、
成功、失敗、半分半分。
どっちかいうと、かなり圧倒的に、失敗の率が高い。
(あともうちょっとなんだけどね。)
要は、物事は、理屈でないのです。

失敗して、のたうちまわり、
苦しもがいているのが現状。

現に知人で、
すばらしい仲間の一人であるけれども、
ぼくの仕事も理解されず、
(僕はアチラさんの仕事は理解してるつもりだが。)
どうしてなんだか誤解がもとで
離れ離れの有様である。

物事は実に、なかなか、
むつかしいのであります。
(だから、おもしろいのかもしれませんけど。)

まあ、けれど、とりあえず、
今を、全力投球。
あとはなるように、なるですよ。
と、適当に信じて、やっておりますデスね、ハイ。
(これ日本語か?)
(辛気くさい話の続きですが・・。)

例えば、フランスの印象派の絵画の中に、
日本の浮世絵の写法が取り入られていたりする。
または、印象派音楽の旋律のうちに、
ガムランのごとき、東洋の伝統が浮かびあがったりする。
まったく一見関係ないととれる世界に、
時空を超えた、交差するような世界の交感をみることができる。
西洋の人は、東洋をみて、西洋らしさを深め、
逆に東洋人は、西洋人に、
自分たちをとりまく何者かを感じることができる。
こうして、例えば様々な見聞を広めれば、
単に新しいものを知るというだけでなく、
逆におのずとほんとうの自分らしさ、伝統に、
向き合うことができるという淡い期待を感じているからであります。
特に自分の場合は、
とても理論なんて考えられるシロモノでなく、
実際のフィールディングを通じて学ぶ方が、わかりやすいのですが。

それは、身の回りのことから始まって、
想像力が働いて本の内容が読み取れるようになり、
やがては文章の創作に通じ、
それが身体の表現につながり、
さらには音楽、映像、美術の表現へ拡大し、
また現実の生活の応用、理解、工夫へと結びついていくような、
ものの積極的理解の流れの必然のようであります。

もうひとつは、他国の文化からわが身をみつめ、
さらに自国の文化と伝統を掘り起こしてみれば、
僕たちは遠く忘れていた、
様々な記憶を蘇らせることができます。
それは決して軽薄なものなんかじゃなく、
ぼくらルーツそのもの、といってよい。
時代時代の言葉によってつむがれた、
さまざまな表現の一貫は、
例えば源氏物語、平家物語、万葉その他、
過去に理解しづらいが珠玉に満ちた、
僕らの根底に根ざした豊かなものの捉え方、感じ方に通じ、
時代を問わず、生きた人物を浮かばせて、
その時代に生きた必然と共感を得ることができましょう。
それは広い意味で、自分たちの財産であるし、
僕らの生きた証、
時代の人々への共感、
ひいては僕たちの新たな人物像の創造へと、
結びつけることができるのではと考えています。

それは、自分のおかれている、
あたり前とされるような文化と伝統に対して
ただ単に、深い愛着と信頼とを寄せているからこそであります。

無題。

2004年4月24日 エッセイ
知らない、新しい世界、を知るうえで。

端的にいえば、
アプローチの違いはそれぞれで、
物理、数学等の記号・数理・文字を駆使した
理論構築を目指す分析的方法もありますけど、
(時間軸tを加え経過をあらわす、など。)

分析手法はあくまで客観分析の数理世界。
ありのままを確実に数で置き換えた
疑似グラフィックの世界であります。
それでも、不確定性原理よろしく、
実験による観察そのものが、
事実を主体的に変更してしまう場合もありますけど。

もうひとつは、
認識を客観、分析のみに置かず、
ありのままの観察による主観、洞察を鍛錬して
事実の根底にある、力や時間を感じ表現する方法です。
簡単にいえば、
自転車を、カメラや写真で観察するなんて馬鹿馬鹿しい。
実際乗って、試してみよう、ということです。
ありとあらゆる芸術、スポーツはこちらの方だと思われますが。

厳密にいうと、
方法の違いは、それにふさわしい対象の違い、なのですが。
が、どちらも好き勝手に選べる、というわけでもない。
どちらも、あくまで正しく捕えられる方法、
経験に基づく正しい方法、として、
やはり技術習得に向けて、
繰り返し鍛錬練習しなければならないもののようです。

ただし、特に芸術方面などでむつかしいのは、
時代による、認識方法の違いもありますが、
特に技術に現れる伝統の中で、
鍛錬に基づいた、個性の開花が存在します。
しかし、そのベクトルの捻じ曲がりようが、
はたしてはた目に、ほんとうの創造と認知されえるべきものか、
客観的にみて、非常にわかりづらい点が問題であります。
スポーツ、芸術においても、
文化伝統を守り、知るうえで
どれほどの理解、鍛錬が正しく評価されているのか。
曖昧誤解の要素が多いぶん、むつかしいもんだ。
(また評価基準が客観伝統に頼らざるをえないものだけに)

ただし個性、伝統というものの、
考え方の変化というものを知る上で、
そのような体験は、非常におもしろいことだと思われます。
しかしそれも、本来は、
自分が体験し継続できて、はじめておもしろい、と
思われてなんぼのもんだとは思いますけどね、ハイ。

今も昔も。

2004年4月20日 エッセイ
くだらない、よもやま話。(の続き?)

まあ、はなしの筋もよくわからない、ですし。
大体、ざっとまあ、

僕からでる話など、
いつも、クダランことの延長ですが。

でるんですな、こういう話のツケは。・・

ぶっちゃけ、
はっきり、明暗。
決して、全敗ではないんだけど。

たとえてみれば、
(事実ではないですよ。あくまで比喩!)

大橋マキのようなのには振られ、
むらじ佳織タイプには受けるんかな、・・みたいな。

なんでだろ。
べつにそんなつもりさらさらないのに。
こっちの世界見飽きたのに。
もすこし違う世界みたかったのになあ。

嬉し半分、寂しさ半分?
うーーーーん。

ひょっとして、K県人って、
ある筋からみれば、イモッてこと?
それとも、単にフイーリングの違い?
よく、わかりません。

何年の知り合いも、
ただの友達であれば、
ただのお友達、
やっぱり、それ以上になれなかったってこと?

結局、
なるように、
うまくできてたんかいな。
だすれば、少し残念。・・・。
ま、けど、仕方ないね。きっと。
DVD ビクターエンタテインメント 2001/11/21 ¥5,040アランフェス協奏曲 (ロドリーゴ)
ドビュッシー讃歌 (ファリャ)
古風なティエント (ロドリーゴ)
祈りと踊り (ロドリーゴ)
暁の鐘 (E.サインス・デ・ラ・マーサ)
小麦畑で (ロドリーゴ)
ファンダンギーリョ (トゥリーナ)
粉屋の踊り (ファリャ)
DVDの性能をフルに発揮させることを前提に、 日本のギター界の若き至宝、村治佳織が、スペインの大作曲家ロドリーゴの生誕100年を記念してアランフェス協奏曲他ソロ3曲をアランフェス宮殿で、またファリャ、トゥリーナらの作品をマドリッド近郊の町ペドラッサ、古城(マンサナレス城)などで映像収録した超話題盤。 3か月にもわたるス…

(ここからは、ほとんどトップシークレットに近い、
話なのである。)

以前、某日にお会いした、
某TV局で働く某女子に面会した後の話。
僕は別になんら関係のない昔の知人であるのだが。
たまたまお互いの仕事柄、深夜遅くになることも、あった。

とりあえず仕事が終わって ぼうとしてると、
たまたま連絡が入って、そのまま私服着で
ごはんを食べようということになって、
深夜の2時、ノコノコでかけていった。
たまたま、あちらの方の仕事も終わったということなので。
仕事の方とご一緒はこれはマズイと思ったが、
おもしろいから、ぜひ、ということなので
頑張って 疲れて眠いのを我慢して行ってみた。

すると半蔵門から246号線、六本木近くの焼肉屋さんらしい。
しかも思いっきりの高級店。
ものすごく不安で、財布の中を確認し、
おそるおそる中に入ってみた。
なんか、知らない怪しげな数人、明らかに業界人とおぼしき人が談笑している。
思いっきり場違いだが、そっと会釈し、静かに横につける。
すると、どうやら仕事終わりの席らしい。
奥にも、女性数人、こっそり陣取っている。
すると・・
はて?どこか、どこかでみたような・・
しかし、ふつうの人でなく、
明らかに有名人の玄人さんっぽい。
しかし、顔から、なぜか名前が憶え出せない・・!
えー、誰だっけ?僕も年だな・・
何気なく、うつむき加減で、モシャモシャ肉を食べ、
遠くからみているのも、ぜんぜん気がつかず、
なかなか話で一杯で、名前も訳ありで教えてくれそうもない。

サンチェらしき菜っ葉をほうばってるとき、
はたと気づき、ブッと吐き出した。
・・あれ、つり革広告にのってた、アナウンサーじゃなかったあ?たしか・オオハシ・某とかいったよな・・。
だが、なんで、ここに?!

が、しかして、
もっとも妖しく気を引くのは、
その脇隣の、ちょっとパープリンな
麗しきオバサンぽいお姉さん。
これが、一見ふつうのようで、もっとも怪しげな存在なのだ。
断じて只者でない。
なんだか、絶対、見覚えある。
そうだこれは、絶対、思い出さないといけない!
ない頭と、記憶を、顔面真っ赤に、じっくり辿っていくと・・。
家の、あこがれのクラシックギタージャケットの、
レーベルの表面がいきなり思いついた!

何を隠そう、これは、まさか、もしかして・・!
エ、でもなんで、
いまここ、東京にいんの?

「アノ・むらじ・かおりが・ヤキニクを・食シテイル?@☆!」

あこがれのギタリスト村治佳織が、
ぼくの目の前でヤキニクをモグモグ食べている。
その瞬間、ぼくのあたまのなかの
何かがはじけて、すっとんで消えていきました。・・・

・・その後大量飲酒にて
前後不覚で記憶喪失に至ったのはいうまでもありません。
しかも、こっちは、ルンペン同様、私服ダゾ!!
どうしてくれんのよ、ねえ、アンタ。(怒)

(詳細報告は以上です。あしからず。)

 運を使い果たしてしまった追伸”
本年の出会い系有名人豪華キャスト:
小野真弓、大橋マキ、村治佳織。
ISBN:4063289362 コミック 佐藤 秀峰 講談社 2004/02/23 ¥533

お題はほどほどに、よもやまを交えるか・・?

たとえば、一曲に始まりと終わりがあるように、
生と死も、そのターニングポイントがある。
生き様が人さまざまであるように
終末像も、またさまざまであり
日常に生の謳歌があふれて忘れ去られがちな終末へ
さらに思いをめぐらすのは、むつかしいことではあるが、
人それぞれのエピローグに 一定の執行猶予のもうけられた
癌死の生に対する自覚への促しは
やはり激しい痛みや実感がこもるものである。

結局、生のエピローグは
各人の生き方の集大成であり、
その限られた時間においては
各人にゆだねるほかは、ないのであるが・・。

死といってもいろんな死に方死に場所があり、
大往生からmiserableなものまでさまざまであるが、
恐らく自覚の伴わない急死より、
納得いかれるものも少なからずあろう。
どんなに長生きしようとしても
いつかは誰しも死は訪れるだろうし、
逆に永遠に生きられるとすれば、
それこそ無目的な、一生退屈な人生の恐怖で満たされるだろう。
はなはだ一生が短いのは残念であるが、
けだし、神様のくれたプレゼントくらいに
考えておいたほうがいいのではないか。

確かに抗がん剤投与による、
大規模臨床試験の展開は
それ相応の副作用と延命をもたらし
一部に寛解に至る奇蹟的事象をもたらすが、
癌死が生命期間を短くするのは現在間違いないし、
基本的に死を免れる病気でもないのである。
ならばこそ、生とみつめ合い、
死と共存しあう生き方。
その手ごたえを十分に実感する時間である。

実際の死の克服、闘病には、
限界を超えた痛みや、体力・精神的苦痛を伴い、
およそ想像もつかぬ大変な労力を消費されるだろう。
緩和ケアなるものは、その限界なる緩和対症療法に努め、
なおかつ十分な精神的よりどこりの支えを
提供しなければならないのであるが・・。
ただし、病状悪化に伴う病識や治療意欲の変容は
恐らく対処に選択の変更を迫られ、
かつ緩和ケア俗にBest Supportive Careなるものは
現在の完治より遠く離れて、
治療を断念し死を受け入れざるを得ない状況に至った
積極的治療の除外を宣誓された方の総体である。
医療の限界を思い知り、
なおかつ生き頼らざるを得なくなった方がたの
残された人生の使い道。
それを、肯定的に受け取り
暗中に活かす道の模索こそが
この医療、ケアの積極的考え方の神髄である。
逆にいえば、
一見病に侵され、不自然に受け取られた死に道を
いかに自然死に、ひいては自然な生命の終焉へと
導ける努力、納得いける自然な死に方へのアプローチが、
この医療の最大のテーマでないか?

実際、患者さんが、
死の手前一瞬、生のこうごうしさを解き放ち、
最後のエピローグへ至るドラマを演出し、
残された生き行く人々へ
最後の道標をわたし 生の歓喜を生き伝え、 
生の輝きを残してゆく数々の場面。
およそそれぞれ、
いうにいわれぬ感慨ぶかきものがあり
ただただ首肯を垂れるばかりである。
 いろいろ悩んで考えていて
 答えがみつからないとき
 本当にその局面での
 正しい解答などないに等しい。
 
 悩んだ末の回答に
 正誤などあるはずもなく
 ただ、その場にふさわしい
 選択肢のひとつを好みで選んでみただけ。

 この好みが曲者で
 たいていは勝手気ままな
 無責任な好き好きで決まってしまうだけ。
 考えてみればむごい話である。

 はじめから考えてみると、
 そうそう各人めいめいにたいそうな違いなどなく、
 おとこもおんなも、
 同じ保育器の中で生まれ育ち、
 ただ分け隔てのない愛情で生まれ育ってきたのだ。

 罪びとにしろ、
 生まれたときはみんな全員かわいい赤ちゃんなのだ。

 狭いニッポンの中で
 どこそれの生まれ育ちとか
 お顔や体つきとか
 考えてみればつまらない話で、
 ただその場で、それぞれのおかれた中で
 普通に努力してやってきた仲間に過ぎない。

 小さな違いをことさら大きくみせて
 際立たせて隔てるような
 つまらない考えは払拭したい。
 レッテルの貼られた周囲の環境は
 たまたまその場の偶然から成り立っただけで、
 そこにみせかけのヒエラルキーがあるに過ぎない。
 くだらぬ紋付きはかまはさっさと捨てて
 しがらみにとらわれない
 ありのままの 元の自由なぼくたちを
 もう一度みつけれればいいなと思う。

 何年の付き合いにしろ、
 はじめはただの偶然が重なって
 なんとなくその場を過ごしていただけにすぎない。
 ただその場のしがらみで
 慣れ親しみ生きただけにすぎない。
 
 その偶然の出会いの
 どちらに重きがあろうはずもなく
 ただ漠然と
 そのどちらかの偶然に慣れ親しみを感じただけである。
 出会いとはそんなもので
 だからどちらがどうというはずのものでもない。
 ただ時と偶然の流れに身を任せて、
 良かったな、楽しかったなと
 思えていただけである。

 だから過去にこだわるふうもなく、
 さして未来も心配せず、
 むかしもいまもかわりなく
 ただ当たり前のことを当たり前のように感じて
 今を風のようにさらりと生き流せば、
 そう悩みもみせず、
 ありがままをありがままに受け止められ、
 恋も含めて毎日を楽しく
 さらに過去の我執に埋もれることもなく、
 しぜんと自分流に楽しく生きれるかなと思う。
 このこだわりなく「自分流」に生きるということ
 悩んだあかつきの回答として
 おすすめしたりしますが、どうでしょう?ヒデヨシ君。
 
 
 
 
 
 
 
 
 ・・いまどきの子はむつかしい。
   
  なに考えてるのかわからない。

  べつに僕のことはどうでもいいです。

  アナタ自身のことなのだから

  アナタが考えて、決めるべきです。

  僕はなりようでいかにでもなれます。

  だから、まったく心配無用。大丈夫。

  君が思う存分、

  好きなように、やりたいことを、

  やりさえできれば、それでいい。
 
  つまんないことは、まったく気にするはありません。

  わかったあ?
 本日Mちゃんから待望の連絡あり。

 M子’sママより
 容赦御免の許可を得て、ようやくOKサインに漕ぎ着ける。

 よって、早々にわが軍団へ率先し、
 待望の最強T美大制圧に乗り出さんと欲す。
 もう迷うことはない。

 「ニイタカヤマノボレ!」

 

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