(辛気くさい話の続きですが・・。)

例えば、フランスの印象派の絵画の中に、
日本の浮世絵の写法が取り入られていたりする。
または、印象派音楽の旋律のうちに、
ガムランのごとき、東洋の伝統が浮かびあがったりする。
まったく一見関係ないととれる世界に、
時空を超えた、交差するような世界の交感をみることができる。
西洋の人は、東洋をみて、西洋らしさを深め、
逆に東洋人は、西洋人に、
自分たちをとりまく何者かを感じることができる。
こうして、例えば様々な見聞を広めれば、
単に新しいものを知るというだけでなく、
逆におのずとほんとうの自分らしさ、伝統に、
向き合うことができるという淡い期待を感じているからであります。
特に自分の場合は、
とても理論なんて考えられるシロモノでなく、
実際のフィールディングを通じて学ぶ方が、わかりやすいのですが。

それは、身の回りのことから始まって、
想像力が働いて本の内容が読み取れるようになり、
やがては文章の創作に通じ、
それが身体の表現につながり、
さらには音楽、映像、美術の表現へ拡大し、
また現実の生活の応用、理解、工夫へと結びついていくような、
ものの積極的理解の流れの必然のようであります。

もうひとつは、他国の文化からわが身をみつめ、
さらに自国の文化と伝統を掘り起こしてみれば、
僕たちは遠く忘れていた、
様々な記憶を蘇らせることができます。
それは決して軽薄なものなんかじゃなく、
ぼくらルーツそのもの、といってよい。
時代時代の言葉によってつむがれた、
さまざまな表現の一貫は、
例えば源氏物語、平家物語、万葉その他、
過去に理解しづらいが珠玉に満ちた、
僕らの根底に根ざした豊かなものの捉え方、感じ方に通じ、
時代を問わず、生きた人物を浮かばせて、
その時代に生きた必然と共感を得ることができましょう。
それは広い意味で、自分たちの財産であるし、
僕らの生きた証、
時代の人々への共感、
ひいては僕たちの新たな人物像の創造へと、
結びつけることができるのではと考えています。

それは、自分のおかれている、
あたり前とされるような文化と伝統に対して
ただ単に、深い愛着と信頼とを寄せているからこそであります。

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